私自身は、あの世の存在を認めることにしていますが
カルト側と考え方に於いて一線を画する必要があるのです。したがって、あの世に関する所見を一通り記すことにします。
この度の事件は、GLAと幸福の科学があの世はあるとしても良いこととは、別に、客観的、根拠のない、前世(生)の因果を主張して、
私に迷惑や被害をかけているのです。同様迷惑や被害は、私以外にもあるかも知れませんが、そのことは私の関知できるものではないのです。
あの世について語られている基本な概念は、この世では正確に審判されなかった事態や事柄に関してあの世では正確に審判されると云うものです。
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上記概念は、人類一般の「正しく審判して欲しい」と云う
願望の現れかも知れませんが、事実かも知れないのです。正しく審判世界ではないとは言い切れないのです。以下はあの世が存在するとする前提で記すことにします。
この世から類推しても、あの世に物質でできた、身体を持っていけないことは確実です、ではあの世に行くとは何か?言うことになります。
要するに認識機能が行くことになるのです。分り易く言えば、景色を見たり鳥の声を聞く機能のことです。目や耳がなくなってもその機能が残るのか?どうか?
と云うことです。盲人などは身体に閉じ込められている機能が身体に障害があるため、発露できないと解釈するものです。
足を切断して歩けなくなった状態同じ意味です。
さらには、見たり聞いたりできる機能は、喪失したとしても
生き物の想念を感知できる機能は残るのか?新たに生じるのか?と云った問題になるのです。参考ながら、植物はもとより、鉱物にも意識があるとの説もあるのです。
要するに、認識機能に相当するものが、心なのです。あの世には物質でできた身体はないのですが、想念で創られた、
イメージとしての身体は存在すると云うことです。身体はないのですから食べるに困ることも、金にこまることもないはずです。
では、どのようにして賞罰が行われるか?と言えば心の中で働く想念が賞罰を受けるのです。
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