霊的なことは、人それぞれの想いの状態を反映するものですから
人により異なるのです。唯、この世から類推して、一般的に捉えても妥当であると考えられるものはあります。ネルギーや物質は、如何なる人といえども、
全て太陽から供給されているのです。直接得られているものは、日光だけなのです。しかも、この日光を直接、エネルギーとして、
直接取り入れることのできる人はいないのです。植物だけが、直接取り入れて光合成を行っているのです。しかし、人間も、
全く直接日光を浴びることができなくなれば、いずれは死ぬのです。尚、霊太陽とは、光の発祥源と捉えればよいか?と思います。
そして神の腹心中の腹心と云えるでしょう。
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あの世にも、霊太陽と言うべき霊太陽は、強い光で日差しは
明るくても熱いと云うことはないとのことです。霊太陽の恩恵については、この世の太陽の恩恵の内容を示すことさえ容易にできることではないのです。
いわんや、実際に存在の確認さえできない霊太陽の働きや恩恵など、私が語れるを分けはないのです。唯、霊太陽も如何なる存在にも分けへだてなく、
滞ることもなく、光とエネルギーを与え続けているとの説が一般的です。しか、一方的に与えられると言っても、
間接的なものは自ら与えられるように努力しなくてはならないでしょう。住処を失って南極のような極地に行かなくて済むように努力しなくてはいけないのです。
又吹き溜まりには、さまざまなタイプがあり、タイプに応じた悪想念が霧のように充満して太陽の光っを遮ってしまうとの説もあります。
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あの世で地獄に堕ちたら、霊的に上位者にしか助けられないのです。
この世にまします生き神様が本物か?どうか?が、大変重要な意味をもつのです。しかも、下から上は見えないのです。下から上が見えないことは、
感性に関しても、論理にしても、波動に関しても、その他何に関しても、事実なのです。下から上が観えなければ、乞食と聖者を取り違えることもあり得るのです。
神と悪魔の判別が安易にではきなくなるのです。しかし、上から下は丸見えなのです。ではどうするか?と言えば、
心を透明にして太陽からより多くの光をいただくことです。心が怪しき想念で曇っていると太陽からの光が得られないとのことです。
神と悪魔の判別に困ることもなくなるのです。自分を尺度として観れるからです。心が透明であると云うことは、霊的には上位者なのです。
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